山本作兵衛追悼集「オロシ底から吹いてくる風は」 1985年 掲載

「いっちょ噺ば聞かしゅうか」

「いっちょ噺ば聞かしゅうか」
作兵衛さんの絵には、スカブラ噺をきくようなそんな気安さがある。
作兵衛さんの画集のあの拍子木の音を聞くような。
表紙をめくる時、それは小さい頃、夕方になるとアメガタをなめなめ観入った紙芝居を聞くような、又よく弁当を持って見物に行ったドサ廻りの芝居の幕開きを待つような、そんなワクワクした嬉しい気持ちに誘われる。

先日、夕食後、今年六十七歳になる母に作兵衛さんの画集を見せた。
母は一枚一枚しげしげとながめながら、
「ホ―、昔の人はやっぱ偉かばい。」
「アララー、どげんすっじゃろか」
「ほんなこつじゃん。こげェやったもん。」
「ぞーたんのごつ。無理(ムン)なこつするばい。」
「こらまたなんちゅうこつかいな。」
といちいち喜んだり腹を立てたりするのである。
それはちょうどスカブラの話に聞き入っているものの相槌のようでもあり、共感の笑いのようでもあった。
 ©YAMAMOTO family

かつての炭坑には切羽での休み時間などに皆に面白い話を聞かせて笑わせる地底の噺の衆とでもいうべき炭坑夫が多勢いたそうだ。
彼らは事務所に時間を見に行ったり食事時を報らせりするだけで炭(イシ)を掘る仕事はしない。
しかし、地底の生死の間で働く人間にとってはこの噺が唯一の楽しみであり彼がいなければかえって仕事がはかどらないほどで、そのために皆は自分たちの掘った炭を少しずつ集めてはこの男のためにとっておくのである。
だからこの男の手拭いはいつも真白。スカッとしてブラブラしているだけである。
スカブラとはそんな地の底の人気者に冠せられたアダナであった。
そしてその噺には厳しい労働に対する皮肉やユーモア、権力者に対する風刺から坑内での男と女のエロ噺にいたるまで、あらゆるジャンルの情報や世間話があったという。
このスカブラ噺と作兵衛さんの絵はどこか似ている。

作兵衛さんはその絵を描く動機を次のように記している。
「ヤマは消えゆく。筑豊五百二四のボタ山は残る。やがて私も余白は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思った。文章で書くのが手っとり早いが年数がたつと読みもせず掃除のときに捨てられるかもしれず絵であれば一寸見ただけで判るので絵に描いておくことにした。」

ここを読んでそのモノを表現するという姿勢の気負いのない真摯さや謙虚さにまずぼくは胸をうたれたけれども、あわせてぼくには作兵衛さんのニヤリとする表情もうかんできた。そしてその絵の説得力やそこに記されたあの説明文のやさしさや正確さをなるほどどと思った。ひょっとして作兵衛さんは最後のスカブラだったのかもしれない。

作兵衛さんが絵を描きはじめたのは六十歳を過ぎてからであったという。くしくもそれは筑豊のヤマの灯が一つ一つ消えてゆく時代であった。筑豊が闇に閉ざされてゆくとき作兵衛さんはその闇に向かって日々灯を点す作業をしていたのだろうか。そしてその灯は闇の中にキラキラと輝く絵巻物となってぼく達に残った。

 赤いエントツ目あてに行けば
    米のマンマがあばれ食い ゴットン
 ©YAMAMOTO family

作兵衛さんの画集をひろげてみるとぼくは、筑豊に生きた様々の人達がこの赤いエントツを櫓にしてまるでお祭りをくりひろげているようにさえ見えてくる。
祭りの場に集った人々の目は皆、キラキラ輝いているものだ。
作兵衛さんの絵の登場人物はそのおおかたの目が見開かれている。
人間にかぎらず狐やカラスや犬や猿にいたるまでキチッと目が開いて描かれている。
「ヤマと狐」と題する絵では一匹一匹の狐の目に表情があるし、「ケツワリ」では逃げる夫婦者の背中に追われた赤ン坊まで眠ってなどおらずパチッと目を見開いているのはユーモラスでもあり、ケツワリがどんなに命がけの仕事であったかよく伝えている。
作兵衛さんの絵の登場人(動)物は皆、目千両。


又、ぼくは作兵衛さんの風景画を見たことがない。
作兵衛さんにとって筑豊は大きな劇場でなかったのかとぼくは思う。
舞台は背景だけでは成り立たない。
生き生きとした登場人物がそこに居てはじめて舞台が生きてくる。
そして、生き生きとした登場人物は必ずキラキラした目を持っているのだ。
劇場はそうしたすばらしい登場人物、素晴らしい出し物、そしてすばらしいお客様が居てほとんどユートピアになる。
作兵衛さんの描いた筑豊は作兵衛さんなりのユートピアではなかったのだろうか。
このユートピアはけっしてのんびりおっとりしたユートピアではない。
むしろ世間はそこに生きる人間をタンコゾウ、下罪人と呼び、そこを地獄と呼んだ。
地獄を生きぬくという事は大いなる闘いでもあったろうしそこに生きたという事は作兵衛さんの誇りでもあったろう。
だから作兵衛さんの絵に悲惨さやみじめさは微塵もない。
ケツをまくった川筋の心意気があるばかりだ。

作兵衛さんの絵やその説明文を見ていると、表現する事とは何なのか、文字は何のためにあるのかいつも考えさせられる。

作兵衛さんは生活や作業といっしょに人情を書き残そうとしたのだ。ヤマの灯が消されてゆくつらい時代であったからこそ、その人情の灯を伝えたかったのだろう。

 こんな住み良い情の里を
    炭坑は地獄と誰がいうた ゴットン

 ©YAMAMOTO family

地獄を情の里にしてしまう庶民の知恵や地底の連帯の姿こそ作兵衛さんの描いた人情だったのかもしれない。ユートピアは地獄でキラキラした目を持った人間の中にこそある。
イシを掘るというその一点で人々が生きた時代はきっとそんな生の充実した時代であったにちがいない。

ぼくは大牟田の街で生まれた。三井三池炭鉱三川坑の坑口のすぐそばで育った。
「あかんぬけせんとこばい」と思って育った。川も空も街の屋根も坑口から上ってくるオッチャン達もみんなどぢゅんだ色をしていた。
小学校二年生の時、街がひっくり返りそうな大事件がおこった。
三池争議だった。
どぢゅんだ色のオッチャン達と炭婦協のオバチャン達がワ―ワ―とデモをしていた。
とにかく街がひっくり返りそうでぼくにはそれがお祭りさわぎのように見えた。
あれから二十五年。
昨年久しぶりに夏の大牟田へ帰った。
西鉄大牟田線で隣に座ったおばさんに「もうすぐ炭(たん)都(と)祭りですね」というとけげんな顔をされた。
今は「夏祭り」というらしい。
 ©YAMAMOTO family