西日本新聞 1997年8月13日 掲載
『御祝儀訓』
日本芸能実演家団体協議会(芸団協)は、ぼく達俳優、歌手、邦楽、洋楽、バレリーナ、噺家等々あらゆるジャンルの芸能人の保険や年金その他諸々の待遇改善のために組織されてもう30年以上になります。
その芸団協の調べでは、我が国の俳優の平均年収は、大卒初任給に及びません。
千両役者もいれば三文役者もいます。
平均ですから、圧倒的多数は後者の部類です。
僕もその圧倒的多数の中の一人ですが…。
俳優の仕事はつまるところお客さま相手の商売、いはば接客業。
あからさまにお金の話しはいたしません。
「粋じゃないねえ」と言われるのがオチです。
でも、不粋を承知で、あえて「お金の話」。

東欧二ヶ国の国際演劇祭からこの三文役者に招聘状の届いたのが、去年の年の瀬でした。
一方は旧ソ連モルドバ共和国のユージン・イヨネスコ劇場国際演劇祭。
もう一方がルーマニアのシビウ国際演劇祭。
前者の演劇祭は今年で2回目。
参加すれば日本からは「初」ということになります。
テーマは「伝統と現代性」。後者の演劇祭は、4回目。
毎回規模を拡大して今回は43カ国の参加、東欧随一の規模とか。
テーマは「カルチュラル・アイデンティティ(文化的自己同一性)」。
両演劇祭のテーマには、僕のひとり芝居「しのだづま考」がぴったりとか。

「おう、やらいでか!」 後先考え無しに承諾の返事を出していたのです。


何度も申しますけど、三文役者です。
借金は出来ません。
返すアテはありませんから。
国際演劇祭というのは、おおむね「現地での面倒は見るけれど、あとはソッチの裁量で」というのが常識のようです。
そこで、まずは文化庁に話を持ち込んでみましたが、申請の時期を過ぎていてダメ。
国際交流基金は、滑り込みセーフ。
おかげさまで、渡航費全額とはいかぬまでも大方を賄うことは出来ます。
ひとり芝居といっても、スタッフ10名程の一座です。
これを約一月拘束するにはまだまだ資金が足りません。
出発までの約4ヶ月、資金集めに東奔西走することになりました。
いくつかの企業、団体、個人からの資金提供あり。
返すアテはないのだからこれは御祝儀です。
それでもまだまだ不足。


故郷に帰って、友人一同、額を突き合わせての談合。
「そんなら、パーティたい」と話はまとまり、出発を前に三文役者には不釣り合いの盛大な催し物。
おまけに郵便振替用紙を作っての、知人、友人、同窓会等々へのばらまき。
行きつけの喫茶店のママさんは、レジを叩きながらその用紙をお客さんに配っていました。


この5月から6月にかけて僕は、モルドバ国立劇場、ルーマニア国立劇場をはじめ東欧の由緒ある舞台の数々を踏むことができました。
そして、連日のスタンディング・オベーション(大喝采)の中にいました。


いずれの国も、演劇人というのはけっして経済的に豊かではありません。
しかし、経済大国日本から、アジアの国から、一人だけはるばるやってきた役者がよほど豊かに見えたのか、記者会見でかならず聞かれたのが「国家や行政は俳優の活動にどのような支援をしているのか」ということでした。
が、故郷での資金集めの苦労話がひとしきり終わると、きまって記者席のそこかしこから拍手が沸き起こるのでした。
いずれの国の演劇人も一山ふたやま越えてそこに来ていたのです。


役者になって20年あまり。
御祝儀をいただくことは、ままあります。
そしていつもありがたくいただいて、旅先からお礼状を書いたりしています。
しかし、今度ばかりは…。
いえ、役者ですから、シレッと戴いて夢野久作「犬神博士」のチイよろしく「尾張が遠うございます」と言っておけば大物なのでしょうが。


記録作家・上野英信さんの「火を掘る日々」という作品集のなかに「借金訓」というエッセイがあります。
「闇を心の砦として」ひたすら筑豊をえがき続け、記録文学という金字塔をうち建てた上野さんは常に、ものを作るにあたって、「時間を惜しむな、金を惜しむな、命を惜しむな」とおっしゃっていました。
が、その記録文学は、借金文学とも言われていました。
ルポルタージュの時代といわれつつも売れ筋の文学ではなかったのです。

「その借金は、かならず至上の誇りをもってできる種類のものでなければならぬ。
相手もきみに金を貸したことを生涯の誇りにできるような仕事のためにのみ、金は借りたまえ。
そうでない借金は、自分を辱めるばかりでなく、相手をも辱める。
自分を不幸にするばかりでなく、相手をも不幸にする。
まかりまちがっても怠惰と虚栄の尻ぬぐいのために借金してはならぬ。
借金の理由にチリほどの嘘もあってはならぬ。」
(借金訓より)」


上野さんにならってこの際、「自訓」を作れば
「御祝儀を受ける役者はかならず、至上の誇りをもってできる舞台をつとめねばならぬ。
相手もきみに御祝儀を与えたことを生涯の誇りにできるような舞台のためにのみ、戴きたまえ。」


もっとも、友人たちから僕はいま、「カンパ君」と呼ばれているけれど。