「演劇と教育」2004年6月 掲載  特集 型で遊ぶ 巻頭言
考える力と型
 僕のふるさとの祭りに「博多祇園山笠」があります。七百年ほど昔から伝わる伝統行事で、かつて町に疫病が大流行した時に、ある高僧が病人を車に乗せ、施しを求めて行脚した「施餓鬼」が初まりといわれています。帰郷の折の楽しみにしている祭りですが昨年はいつもと変わっている事が一つだけありました。
 毎年「ヤマ」の前面に飾られている「不浄の者立ち入るべからず」という立て札がないのです。当番の役員に尋ねると「今年から取り外した」ということ。「不浄の者」とは黒不浄、青不浄、赤不浄といって忌中の家の者、被差別部落民、ハンセン病者、女性、動物等で、かつて祭りには人交わりを許されてはいませんでした。戦後、民主化の流れの中で被差別部落はいち早く参加していったものの、やがて「伝統」や「しきたり」が美徳とされ動かしがたいものとなっていました。しかし、その常識が今や「非常識」です。「人間が生かされてこそのもの」という認識でようやく意見がまとまった様子。
 門外漢ながら、芸能の世界に目をやれば、「伝統」や「しきたり」あるいは「歴史」や「格式」という名の下に「型」が無批判に伝承されてはいないだろうかと思うことが多々あります。
 永いながい時間の中で人々の目にさらされ練り上げられてきたものが「型」です。そこには当然、演者、観客の批判反批判があったはずです。「型」を否定しているのではなく、「型」の生まれてきた創造の源をとくと考えてみたいのです。それは歴史のむこうにうごめく無数の芸能人たちの遺産であり、芸能を担ってきた民衆の記憶装置ではなかったかと思うからです。「型」はいわば命の凝縮された表現です。創造性を失った「型」はもはや魂の抜け殻でしかありません。
 「型」を遊ぶと同時にわが国の芸能人たちの担ってきた歴史にも思いを馳せていただきたく。子どもたちの「考える力」を育んでいただきたく。
 「型ヤブリ」な子どもたちが僕は大好きです。