テアトロ」 2009年10月号 掲載

僕の演劇人生
初舞台
戦前から九州の炭坑町の片隅で芝居小屋を営んでいた我が家には、浪曲・歌謡曲を中心にさまざまなレコードがあった。
1956(昭和31)年、僕が4歳の時だった。
炭労主催の敬老会が組合の講堂で開かれることになった。
後に「総資本対総労働」の闘いが繰り広げられることになるこの町の炭労は、映画会やコンサートが開催できるほどの大講堂を持っていたのだ。
小学6年生の姉が当時流行っていた鈴木三重子の『娘巡礼』で踊ることになって、毎晩稽古に励んでいた。振付は父だった。
べつに何処の流派というのではなく「アテブリ」である。

切狂言
九州の炭鉱町の芝居小屋の出し物はいわゆる大衆演劇・ドサである。
町には市民会館もあってクラシックのコンサートや新劇の公演もあるのだが、我が家の客筋はちょっと違っていた。
そのお客さんは「よく笑い、よく泣いた」どちらかといえば「泣く」のが目的で足を運んでいるようにも見えた。
町では炭坑夫を「銀行マン」「商社マン」と同じように「炭坑マン」と呼んでいた。
給料日には町にドンと金が落ちた。
気性の荒い男達、女達は気前もよかった。
そうした町では勧善懲悪のハッキリした芝居しか受けない。
「前狂言」で笑わせて、「中狂言」は若手中心の実験的なもの、そして「切り狂言」は「母子物」「股旅物」で泣かせる。泣かせるほど「ヨカ芝居」だった。

炭坑町では人前で泣くことははばかられた。
「泣き」を見せればそれだけでなめられる。時には命取りになる。
とくに男はそうだ。だから、誰はばかることなく泣くことのできる芝居小屋は生活の中で欠くことのできないものだった。
映画に押されて客足に陰りは見えてきたものの、まだまだそこは街の娯楽の王座だった。


節劇
我が家は、芝居小屋を開く前は明治時代の中頃から祖父が大衆演劇の一座の座長となり、九州一円を旅していた。娯楽のない時代である。
一座は50名を超え、わが国最大の「炭都」にホームグラウンドを構えた。炭坑町には必ずといっていいほど芝居小屋があった。
九州の大衆演劇の特徴は、上手で浪曲を語り、それにあわせて芝居を演ずる「節(ふし)劇(げき)」である。江戸・上方の歌舞伎なら義太夫であるところを、そのころ一番人気の浪曲でやった。
今ならロックというところか?

何年か前に福岡県遠賀郡芦屋の墓地を調べたことがある。
そこは鎌倉時代から続く役者村で、明治の初めまで続いた。
200基ほどの墓石の一つ一つを見てみると「市川某」「中村某」「尾上某」と役者の名前が彫ってある。
まだまだ戦後しばらくは、役者の世界はそれぞれの屋号ごとにネットワークが形成されていたのだ。ちなみに我が家の屋号は「音羽屋」という。
戦前は大川橋蔵さんが子役時代のしばらくをここで過ごしているし、村田英雄さんが酒井雲坊といった少年浪曲師時代に修業している。
沢竜二さんのお母さんの「女沢正」は戦前からここに立ち、若き日の沢さんのロカビリー剣法は今も僕の目に焼きついている。


凍土の博多座
ところで、大正5年、巡業先の楽屋で生まれた父は学校を転々としながら子役時代をすごし、役者稼業から足を洗うと、日大芸術学部演劇科へと進んだ。が、昭和17年学徒出陣。1950(昭和25)年、シベリア抑留から帰国するまでその人生は戦争で翻弄された。シベリアのラーゲリでは仲間と共に「博多座」という劇団を結成していたという。帰国後は高校教師となり、高校演劇の指導、労演や子ども劇場の創設などの仕事に精を出していた。

娘巡礼
さて、炭労の敬老会の為の踊りの稽古が進み、明日本番という日、僕は「和ちゃんも踊る!」と言ってきかなかったらしい。
「じゃあ踊ってみろ!」と言われて踊ってみると、正面から見て覚えたので上手(かみて)、下手しもて)が逆になっていた。
母が徹夜で絣の着物を縫って、巡礼の格好にしてくれた。
当日、下手(しもて)の袖で父が一緒に踊りながら、一つ一つ指示してくれた。
客席から花が飛んだ。生まれて初めて自分で稼いだ小遣いだった。
半世紀も前のその光景がこのところふと蘇ってくる。


ただし演出部
小さい頃から幕内生活を見て育った為か、数ある職業の中でも僕は「役者」という職業にだけはなるまいと思って育った。
でも、大学卒業間際に小沢昭一さんが芸能座を旗揚げした。
政治経済専攻の学生だった僕が、受験した。
合格通知が届いた。
「ただし演出部」と添えられていた。
前年に僕の父は他界したが、彼の生涯を振り返ってみると、生まれた時から芝居は食べる為、抑留時代は生き延びる為だった。
しかし戦後は家族を養う為演劇に専念することはできなかった。
そこで僕はこう思った。
「この自由な時代に生まれたからには、好きなことをやってみよう。」
そして
「これまで一番嬉しかったことは何だったろう」
と考えた。
その時、4歳のあの舞台が記憶の底から蘇ってきた。
こうして僕の演劇人生がはじまった。