遠賀川
「中西君、狂うことを忘れなければ演劇は出来ますよ。」その言葉を僕にかけてくれたのは上野英信(1923〜1987)さんだった。『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑い話』『天皇陛下萬歳〜爆弾三勇士序説』など炭坑を描き続け、戦後の記録文学の金字塔を打ち立てたその人の言葉は、演劇の世界に入ってまだ10年そこそこの僕の心にストンと落ちた。そして今でも響き続けている。
1985年の秋、僕は筑豊にいた。筑豊の画狂と謳われた山本作兵衛さんの一周忌の追悼会が『山本作兵衛翁記念祭』として福岡県飯塚市の嘉穂劇場で催されることになり、そのスタッフとして僕は東京から駆けつけたのだった。ポスター張りからチラシの手配、チケット販売、舞台セットの製作、台本、演出、司会…50CCバイクに乗って二ヶ月間、コスモスの揺れる遠賀川の川筋を駆け巡った。
画狂
作兵衛さんは元炭坑夫。60歳を過ぎたころから、明治・大正・昭和の炭坑の労働や風習等々、子や孫たちのために画用紙に描いた。その膨大な絵の数々は『筑豊炭坑絵巻』として今では貴重な文化遺産となっている。映画「青春の門」のタイトルロールに出てくる絵と云えばご記憶の方も多いことだろう。享年九十二。作兵衛さんを「画狂」と呼んで心酔したのは上野英信さんだ。
中西「なぜ嘉穂劇場なんですか?」
上野「作兵衛さんですよ。筑豊の晴れ舞台は、やっぱり嘉穂劇場です。」
中西「大丈夫ですか、お金。」
上野「まあ、一杯呑んで考えよう。」
筑豊文庫
その上野さんのエッセイ集『火を掘る日々』の中にこんな一節がある。
「それにしても、よくまあ30年間炭鉱のことばかり書き続けたものである。今にしてふりかえってみるとわれながらぞーっとする。気が狂わなかったのがふしぎなような感じもする。いや、どう考えても正気の沙汰ではない。とっくの昔に、気が狂っているのかもしれない。」
「記録文学ほどぜいたくな文学はないと、つくづく思う。時間と金と労力をいくら食っても食いたりない。なんの因果でこんなやつにとりつかれたのだろうとわが身の不遇をなげきたくなるときもある。」
廃坑長屋を買い取って上野さん一家が暮らした「筑豊文庫」は、一般常識の通用しない不思議な空間だった。
一つ二つ例をあげると、この「記念祭」の舞台のセットを用意するために、ある葬儀屋さんが呼ばれた。夫婦でやっと立ち上げたばかりの筑豊で一番小さな葬儀屋だった。いろいろプランを出したあげくようやく話がまとまった。
葬儀屋「ところで先生、ご予算は?」
上野 「なか」
葬儀屋「は?」
上野 「ありません!」
(間)
葬儀屋「…うーよか!!道楽ですたい。道楽!」
後で彼に話を聞くと「日本で指折りの作家て聞いたんばい!仕事て思うと情けなか。道楽ち思えば諦めもつきますけん!」
嘉穂劇場の小屋主伊藤英子さんも「あの先生から銭はとられんもんねえ。ばって、うちは葬斎場じゃなかとよ!」
こうしてさまざまな人生を巻き込んで、一人の元炭坑夫の一周忌は大入り札止めの中、万歳三唱で幕を降ろした。今でも川筋の語り草になっているという。
その翌年から、僕はひとり芝居の旅に出た。以来25年が過ぎた。
もの狂う
「狂う」という演劇の核心をあれほど明瞭に示してくれた人を僕は未だ知らない。記録文学も演劇も「表現」という共通項はあるが、「もの狂う」ことがなければ心には響かない。「時間を惜しむな、金を惜しむな、命を惜しむな」これが上野さんのモットーだった。時間や金や命は誰もが大切なものだし、もったいない。それを叩き込んでものを作っている人から出た「狂う」という言葉の説得力に僕は素直に頭を垂れた。
「演劇の魅力」というお題からは、随分遠くなった気もするが、「魅力」という言葉には第三者的な匂いがしてならない。当事者性が感じられないのだ。例えば、恋人の魅力を聞かれてその相手がスラスラと応えたら、悪いことは言わない、別れたほうがいい。真に惚れているなら応えられないはずだ。だから「演劇の魅力」と言われても…。上野さん風に言うなら「とりつかれた」というべきか?これでは「魅力」というより「魔力」かな?
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