小沢昭一追悼
西日本新聞 2013年1月9日掲載
「わが師の恩」のココロだぁ
昨年12月10日朝、訃報を聞いて僕は世田谷代田のご自宅に急いだ。
まだ、息を引き取られてから半日ほどのこと。
ご家族に看護られて安らかな眠りにつかれている様子だった。
手を合わせて思わず呟いた。
「おつかれさまでした。」
1976年、僕は小沢昭一さんが主宰する劇団「芸能座」の研究生となった。
その頃、小沢さんは野坂昭如氏、永六輔氏と「中年御三家」を結成し、武道館を満杯にしてのコンサートを開いたり、「日本の放浪芸」の研究を精力的に展開するなど、特異な俳優活動をされていた。
やがて一座を結成すると旗揚げの『清水次郎長伝伝』(作・永六輔、演出・小沢昭一)で爆発的な人気の劇団となった。以来36年間、僕は小沢さんを師と仰いできた。
「師」なので「先生」と呼ぶべきなのかもしれないが、小沢さんはそう呼ばれることを拒んだ。
同じ板を踏むのに師匠も弟子もないことを告げたかったのかもしれない。
しかし、小沢さんと同じ舞台に立つたびに僕は必ず「病気」になった。
圧倒的な師の演技を間近に見てしまうと「一生かかっても、この人のようにはなれまい。
もう俳優の道は諦めよう。」と毎回思った。
毎回なので「ああ、また病気か」と思うのだが「いや、今度ばかりは本物だな」と真剣に思った。
‘79年春、新宿・紀伊國屋ホール『しみじみ日本・乃木大将』(作・井上ひさし/演出・木村光一)、僕の役は「感心な辻占売りの本多武松少年」、乃木大将はもちろん小沢さん。
三河屋の小僧となった書生志願の少年は乃木邸に忍びこみ、愛馬に別れを告げに来た乃木大将めがけて飛び出してくる。
初演初日の第一幕第一場、僕は緊張のあまり膝がガクガク震えていた。「一生のお願いでございます!」と言って舞台に転び出た少年はやがて大将の膝に縋りつく。
その瞬間、僕はハッとした。小沢さんの膝が小刻みに震えていたのだ。
「この人にしてこの震えか!」座長、プロデューサー、主演俳優…さまざまな役柄を一身に引き受けて小沢さんは舞台に立っていた。
あの時の「堂々とした孤高」を僕は未だに忘れられない。
小沢さんは自立した表現者だった。
だから群れをなすことを嫌い、ベタベタする関係を嫌った。
旅公演の合間には一人で街を散歩したり、芝居がハネると深夜まで原稿用紙に向かっていた。
役者でもあり学者でもあり、舞台・映画・ラジオ・テレビ八面六臂の活躍だったが、いずれも「小沢昭一」を演じていたのではと、今更ながらに思うのだ。
小沢さんには公私ともに迷惑のかけっぱなしだった。
「破門」を言い渡されて当然のことを僕は何度もしでかした。
それでも小沢さんは僕を受け止めてくれた。そればかりかその不肖の弟子の為に方々に頭を下げてくれていた事を僕は後になって人づてに聞いた。
そういう人だった。
「中西君、俳句をやらないか?俺の人生、俳句でどれだけ救われたかしれやしない。」
数年前、僕が相当落ち込んでいる時にそうおっしゃった。
小沢さんは気心の知れた仲間たちとこの40年余り、毎月句会を開いていた。
俳号は「変哲」。俳句をひねることより、句友と過ごす時間が楽しかった様子だ。
今、僕の手元にその句集の一冊がある。その中に「演じない小沢さん」がいた。
旅から旅の生活で、めったに家に帰ることはなかったらしい。
近年はようやく落ち着いた時間を過ごされていた様子だが「女房が珍しくってねえ。」と冗談まじりでおっしゃっていた。
しばらくは戻れぬ旅の湯ざめかな
変哲
12月15日昼過ぎ、黒塗りの霊柩車が、自らのハーモニカ演奏『丘を越えて』(作曲・古賀政男)に送られて万雷の拍手の中、信濃町・千日谷会堂の坂をゆっくりと登って行った。
それがわが師小沢昭一さんとのお別れだった。
*俳優小沢昭一さんは2012年12月10日、83歳で死去。
西日本新聞2013年1月9日掲載
塚崎謙太郎記者
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