2006年 12月号 月刊テアトロ 劇評
海に生きる者の夢とロマン
京楽座「破戒」
―演劇評論家・結城雅秀―

島崎藤村の「破戒」が出版されて今年で百年になる。その記念公演。脚本は中川小鐵であるが、これは演出の西川信廣と主演の中西和久の共同筆名。「蓮華寺では下宿を兼ねた」から始まる「破戒」全編が良く纏められている。場面は数多くにわたるが、四本の柱による簡素な舞台であり、袖に置かれた装置を演技空間に運ぶ形式で場面転換が行われる。それに、奥舞台があり、チェロとパーカッションがあるので、場面が多い割には、細切れの印象を与えない。

冒頭、登場人物たちによって、「ふるさと」を隠すことについての丸岡忠雄の詩がコロスのように朗誦される。飯山で小学校の教員をしていた丑松は、被差別民の男が宿舎から追い払われたことを契機として、その下宿を離れ、蓮華寺に移る。すると、直ちに、校長たちが金杯を讃えている場面になるのだが、その場面がまた実に印象的。金杯は自分で光っており、更に上からの強い照明を浴びる。この場面は、他人の立場に立てない人々、想像力の欠如した人々を強烈な形で象徴している。父の教えを守って、出自を隠している丑松は「なんとも言い知れぬ憂鬱」に襲われている。チェロ(槙野伸也)の寂しげな音色が憂鬱の感情を強調している。人々の噂が立つ中で、丑松は、尊敬する先輩思想家、猪子蓮太郎との知己を否定せねばならなかったのだが、最後に、猪子の暗殺をきっかけとして、父親の戒律を破り、生徒の前に全てを告白する。そして、同じく「親に縁の薄い性格である」士族の娘、志保と結婚して、猪子の後継者となるべく東京に向かう。

丑松(中西和久)の生徒に対する告白の場面が圧巻。ここだけ客席に若干の照明を入れ、丑松は客席に直接訴えている。中西のいつもの情熱が伝わってきた。志保(山本郁子)はあくまで華麗であり、最後の場面の「あなたはもう独りではない」という言葉に万感の思いが籠められている。人間は他者との繋がりを確保して生きているのだ。猪子蓮太郎(森山潤久)は、力強く、自由と平等を説いた。勝野文平(若松泰弘)は表現力が豊かであった。この他、土屋(石田圭祐)、高柳(隈本吉成)、校長(関輝雄)など、個性的な役者が活躍している。ナレイションと丑松の父の声は、三國連太郎によって、実に味のある、心に染み入るような出来になっている。

「人間は寂しくて、寂しくて、どうしようもない時がある」「生きるというのはその苦しみを引き受けることだ」という哲学が監修の五木寛之によって提示されている。このことによって、丑松の憂鬱は、あらゆる人間にとって普遍的な苦しみになっているのが、この公演の特徴である。

(2006年10月13日 六本木・俳優座劇場)