2006年 8月号 月刊テアトロ 劇評
「昭和」の時代を回顧する
京楽座「中西和久のエノケン」
―演劇評論家・結城雅秀―

京楽座による「中西和久のエノケン」。
作・演出はジェームス三木で、主演は中西和久。
中西の作品は本来に「語り」である。
そこに彼の持ち味があるし、それが彼の強みでもある。
その意味で今回の作品は大変に成功している。
中西自身がエノケンになり切って、その一代記をモノローグで語るという方式である。
冒頭からして、エノケンそっくりの中西和久が出てきて、「こら中西、逃げ隠れしねぇで、ここに出てこい」とやる。
この声や様子が誠にそっくりで、驚いた。
エノケンがエノケンのことを語るのである。

戦前の浅草から始まる。
「浅草ロ六区まつり」などの幟、「三友会」「オペラ座」などの看板が見える。
「青春水滸伝」についての回想、「カジノ・フォーリー」のこと、ともかく何とかして客を喜ばせよう、笑わせようと懸命だ。
エノケンという人が大変に真剣かつ真摯な人物であることが分かる。
その意味で、エノケン自身が役者・中西と重なる部分が多い。
エノケンは、実生活で榎本健一に戻ったときには口下手であり、陰気であったという。
また、喜劇役者が新劇役者より下に見られていた時代の不満を反映している。
差別に対する静かな憤りが舞台から感じられるのだ。
それに、中西にもエノケンにも何か寂しそうなところがあり、その「陰」は魅力のひとつである。
更に、松竹・東宝の映画時代、ブレヒトを脚色した「乞食芝居」の頃、満州事変と支那事変、空襲と敗戦、戦後における長男の病死と離婚、昭和45年の肝硬変による逝去と続く。
そうした時代を生き抜いた様子はそのまま、戦前戦後を通じた「昭和」という時代の一大絵巻を語ることになっている。
そこには、時代を反映しつつ、誠実に人生を生きたひとりの男の生き様が余すところなく描かれているのだ。
死の床で「ワタナベのジュースの素です、もう一杯。・・・不思議なくらいに安いんだ」と歌う箇所にも、あの時代の象徴を感じさせた。

劇中、多くの歌や踊り、それに楽器の演奏の場面があるのだが、中西和久は単にエノケンに似ているだけでなく、これらを実に器用にやってのけている。
芝居の中でエノケンが歌っている映画の主題歌は多くのジャズの替え歌で、見事なものである。
サトウ・ハチローが作詞した「ダイナー」の「替え歌、「ダンナー、飲ませてちょうダイナー・・・」などが耳に残る。
中西自身がトロンボーン、ヴァイオリン、トランペット、三味線を披露しているが、楽団には、サックス、クラリネット、フルート、木琴などを演奏する人々が揃っており、全員、とても楽しい雰囲気を出している。

美術(妹尾河童)は、折り畳み式のパネルから出来ているのだが、そこには黄金時代の浅草六区や、舞台、楽屋などが象徴的に描かれており、これらを開閉、回転させることで早急な舞台転換を可能としていた。

(2006年5月26日、新宿・紀伊國屋ホール)