小昭一追悼
悲劇喜劇2013年4月号
ふじたあさや (劇作・演出)


冷たくて温かい「粋」な人

葬儀の時、祭壇の遺影を見ながら、「あ、この人、昔から同じ顔してる。」って思った。
初めて会ったのは、昭和二十一年の四月だったから、小沢さんは十七才ぐらいだったはずで、それから六十六年も同じ顔なわけはないのだが、しかしぼくの中では、小沢先輩は十七歳のあの時からずっとあんな顔をしていたように思われてならない。
カラーテレビ初期のころ、「小沢さんの顔はメイキャップ要りません」とNHKの化粧室で言われたという、独特の肌色と言い、いつも笑っているように見える細い目と言い、今にも皮肉を言いそうな口元と言い、見事なまでに変わらないが、一番変わらないのは、まわりとの関係の作り方だろう。

初対面は、ぼくが旧制麻布中学の一年の時で、演劇部の部屋を訪れた時、迎えたのが小沢さんで、両側に加藤武、大西信行の両先輩がいた。
初対面の印象は、大西、加藤両先輩がよくしゃべって、小沢先輩はあとからぼそっと決定的な一言をいうという感じだったが、この印象は後になっても変わらなかった。

中学にしては妙な演劇部で、レパートリーは山本有三作「盲目の弟」、岡本綺堂作「利根の渡」、岡鬼太郎作「眠駱駝物語」と、歌舞伎俳優にあてて書いた作品ばかり。それにしても、これらの舞台での小沢さんは格好良かった。
小沢さん扮する「らくだ」の屑屋久六が、酔うに従ってくだを巻きはじめ、加藤さん扮する丁目の半次が困り果てていく場面の絶妙な面白さは、今でも目に残っている。とても中学生とは思えない出来だった。
この人に認められたい、とぼくは思った。
夜の講堂で仕込みをしているときに、ちょうど八代目可楽の「らくだ」のラジオ放送があって、全員で宿直室のラジオを囲んで聞いたのも忘れられない。
小沢・加藤・大西の三先輩は、正岡容門下だったから、落語種の「眠駱駝物語」はうってつけの出し物だったに違いない。
しかし、下級生の多くは、どうしてこういう古臭い芝居ばかりやるのだろうと、ぶつぶつ文句を言っていた。
ぶつぶつ組の一人がぼくで、同じくぶつぶつ組の二年先輩の福田善之と相談して、福田演出で久保田万太郎の童話劇をやることにした。舞台稽古の日、小沢さんは大西さんと二人で最前列に陣取ってみてくれた。
舞台に立っていたぼくは、先輩の目が気になって仕方がない。ちらちらと反応を気にして見ていたら、「この野郎、いちいちこっちを見るな」といいながら、大西さんが紙つぶてを投げてきた。
小沢さんが、「自然でよかったよ」と褒めてくれたので、有頂天になったのを覚えている。ぼくは中学二年生だった。

ぼくが早稲田に進んで演劇をやるようになったのには、これらの先輩たちが早稲田に進んだからだった。

その後のぼくは、新劇のリアリズムに飽き足らず、いろいろ触手を伸ばしたが、語り芸はいうまでもなく、民俗芸能の勉強をしても、古典芸能の研究をしても、どこにもすでに小沢さんの足跡があった。
ことに放浪芸の研究には、余人の追随を許さないものがあって、恐れ入りましたというほかなかった。
この人に認められたいと、ぼくはまたしても思った。

一九七六年のことだった。
俳優座劇場を借りて、当時やっていた印象舞台という劇団で演出した狂言様式の芝居を上演していたところへ、ひょこっと小沢さんが現れた。
小沢さんがぼくの芝居を見に来たのは初めてだった。
楽屋見舞いの団子とともに、「面白かった」の一言を残して帰られて、間もなく電話がかかってきた。
「芸能座という五年間期間限定の劇団を始めたんだよ。研究生養成を手伝ってくれないかな」
どうやら先輩の眼鏡にかなったらしい、と知って、ぼくはまた有頂天になった。もちろん喜んでお手伝いさせてもらうことにした。

研究生の授業は、ぼくが演技全般を見るほかは、松本源之助師匠の神楽、向井十九さんの体技があるだけで、時々小沢さんの集中講義があったり、得意芸の披露大会があったりするという、かなり独特のものだった。
それから四年余り、僕は芸能座の演技トレーナーとして、小沢さんを手伝うことになる。
最後の公演では、演出を分担したりした。「自分がやりたくてやった仕事は、芸能座だけだった」とあとで小沢さんはいわれたそうだが、それもうなずける熱中ぶりで、芸能座の数年間は、ぼくには得難い時期だった。
のちにいくつのもの仕事で協同する中西和久は、ここでの生徒だった。

すごい勉強家のくせにそんなことはおくびにも出さず、遊んでいるように見せる―麻布にはこのタイプが多かったが、その意味では小沢さんは典型的な麻布だった。
努力なんかしてない、遊んでるだけよ、というふりをしながら人知れず努力をしている小沢さんを、「粋」な人だと思った。
本質はかくしておいて、表向きは「小沢昭一」という役を演じているのだ。
小沢さんはべたべたすり寄ったり、じゃれあったりする人間関係はきらいだった。
そんな関係になりそうになると、すっとかわしていなくなってしまう。
冷たい、という人もいたが、ぼくはこの冷たさこそが、温かさなのだと思っている。
もたれあったり、じゃれあったりすることで、人間は育たないことを小沢さんは知っていた。

小沢さんとの最後の会話は、「どう?中西元気?あいつを頼むよ」という温かいものだった。
ぼくは、中西を小沢さんからまだお預かりしたつもりでいる。